随分とふるい本だけど、古本屋で入手したんだけど、文語的仮名遣いではないのでほっと一安心だ。

そうはいっても函入りで、硫酸紙が巻いてあったりして…古色蒼然、懐かしい(?)

所謂随筆だが、随想という感じかな。
決して軽くは無い。今の、エッセイというのとはまた違う。
自分の日常生活の記録ではなくて、思うこと考えることをどんどん発展させて綴っている。
何よりも、"自分を高めること"が念頭に有るようだ。
同時代の文人や文学についての考察も深い。
勿論、旅行記や覚書的なもの(時代的に戦前・戦中・戦争直後の話になるが、それだけでも変わった視点に立てて面白い)

そも、記録や感想というものは
「むかしの話しなど書かれても、昔話(記録)以外の何者でもない」
然り!(笑)
エッセイとは言っても、それは記録ではないのだ。

この著者は、「叡智の文学」ということを言った人だが、これはそれ相応の年にならないと、判らないこと、書けないことがあるということだ。
理屈ではなく、年輪が、経験が理解する「大人の文学」
それが叡智の文学であり、英文学はまさにそれだというのだ(著者は大学の英文学教授)
逆に若くしてそれを書ける人、というのは「お、よく書いたな」と驚かれ感心されることになるのだと。
例えば一葉とか。(私にはわからぬが)

叡智の文学はそれが書かれた国の土壌が必要だという。だから国境を越え無い文学である。
土壌も環境も違う異国の人には、理解されがたいのだ。
だから、"おもしろくない"
面白いと思うためには、理解する為には、国境を越えさせる為には、こちら(読み手)が世の中の辛酸を嘗めつつ年をとって大人になる必要があるという。

この論の是非はどうあれ、ちょっとは年をとった(とりあえず不惑は過ぎたしな)私どもにとっては快い論である。
「へっへー♪」てなもんだ。

日露の頃、研究に没頭しすぎて修正の賑わい(堤燈行列とか?)をもって創めて「ナニがあったのか?」なんてとぼけたことを言う研究者がいたらしいが(笑い話のネタか?)、さすがに太平洋戦争はそうも行かぬ。
遮断幕の下、少しずつ英文学を読むのは、辛いばかりではなかったと著者は語る。
極限状況というのは、一定の峠を越すと快感になったりするんだよね、確かに。
わくわく感、どきどき感がね。

当時著者は50歳ぐらいかな?
戦争には行きません。
銃後で日本を守る組みです。
残った町内には役者とか音楽家とか学者とか、一風替わった個性的な人たちばかりがいて、防火訓練などは大変…というより今読んでいるこちらはちょっと笑ってしまう話である。

そして、
文学者の死=時代の変わり目。
ひとつの潮流の途切れ目でもある。

退院してすぐ、新聞に市川昆監督の死亡記事をみつけた。
これもまた、時代の切れ目かもしれないな…と。

さて。
著者の話にかえる。
学位論文について、書かずに放って来たそれを、遅れて書く羽目になったという。
一応大学の先生だからね…学位はとらなきゃならないらしい……気の毒な。
何か思いついて一つ研究をしてみようじかいな、と思って実際にやろうとするんだけど、「ちょっと待て」てな具合になって、それをくり返す。
新たに思いついたものは、輪郭をなぞるだけで終わってしまう。
そんな高尚なものではなくとも、我々にだってそういう覚えはある。
思いついたときほどに、グッドアイデアじゃあなかったなーと思うときが。
つまり、モノにはならぬ。
「私の過去には、そのような半殺しの研究が散を乱して道々にたおれているのだ」(287頁)

想像してしまいました……(笑)
志半ばに無念の形相でたおれる研究を……

もうニつ引用を。
生きるということは忍び寄る"死"の足音を聞くこと。
戦後すぐで50台前後だと、確かに"死"は今よりもうんと近かっただろうと思う。
「もっともっと生きてゆきたいというのではなくて、生きる日を静かに味いながら生きて終わりたい」(300頁)

確かにそうである。
わけなわからない状態で、器械で生かされてるのは嫌なもんだ。
それに何をしたら楽しいか?なにがしたいか?というのが自分で判らない人生も嫌だな。
「人はめいめい一生を背負っている。その一生に出来ることを、着実に、正直に、親切に、やってゆけば良いのだ。他人の出来ることは他人の出来ることなのだ。自分に出来ることが自分に出来ることなのだ。人を羨むには及ばない」(314頁)

はぁ〜達観ですね。

某プ○ジデント誌なんかに載っているのとはまったく反対の心あったかいお言葉。
私なんかは、もう、こっち側だよね〜。

ISBN:B000JAF12S − 福原 麟太郎 新潮社 1964/00 

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