ポストモダン

2007年8月12日 読書
ポストモダン
私には国際フォーラムと京都駅ビルがポストモダン主義の行き詰まりのように思えてならない。(中略)定型(すなわちモダン)の「破壊」=「遊び」といった試みはわからなくもない。しかし10年後、再度訪れた時を空想する。それは色あせ錆びた遊園地のような無残な姿をさらしているのではないか。

クーラーをフル稼働させなければ過ごせない。
その費用は?
それによって出る熱風は?

東京都庁しかり。
あの全面ガラスをぴかぴかに磨く費用、ガラスゆえに上昇する熱のしょり(=冷房)、それはすべて税金でなされるんでしょ?

建物の出来たほうが先とは言え、その兆候、温暖化の危機は判っていたわけだし(出なけりゃ温暖化防止会議なんてやらないでしょ?)…これじゃあね、京都議定書が泣くよな。

建築家がそんなものを設計したんだとしても、それを選ぶ人がいるんだから。

阪神大震災はそのポストモダン建築、戦後50年の建築の理念をぶっ壊したという。

木々が多ければ、いくばくかの炎はそこで防げただろう。
屋上緑化であれば、類焼はいくらか食い止められただろう。
雨水利用など、各家が水の貯蔵をしていれば(緑化計画の重要な根幹は雨水を利用して循環させること=経費節減にもなる)

そういうものが何にもない都市計画が、あれだけの悲惨なものを招いたのかもしれない。
納得できる気がする。

京都市内の大火のときだ。
蛤御門の変ではなく、応仁の乱の時なのか?それともほかの大火の時かな?
とりあえず、本願寺かどっかの境内に植えられたイチョウの大木が、「水を噴出して火を消した」という伝説がある。
どうも本当らしいのだ。
銀杏は特に水を大量に含む木らしい。

こういう話を聞くたびに、嗚呼、人間って本当にちっさいと思うな。

コメント

お気に入り日記の更新

テーマ別日記一覧

最新のコメント

日記内を検索