一言で言うなら、面白かった。
すいすい読めた。
いろいろ納得することも多かった。
そして…うへぇ〜と思った。正直なところ。

英国初の映画は、要注意で見なければいけない。
         ということが、これを読んで、良く分かった。

だけど同時に、それが分かるほど私は英語のヒアリングが出来ない。
         ということを、私はちゃんと知っている。

なぁんだ。
だったら、無視してもいいわけだ。

……というのは、英国発(英国製)の映画というのは、俳優がその役割に応じた"階級の発音"を余儀なくされている、という事実があるからだった。

って、これってもう周知のことでした?(知らぬは私ばかりなりって?)

日本でも、方言と言うのはある。
だけど、それは否定的に捕えられない。
小説家は書き言葉だから、方言の存在は"強いて意図しない限り"分からない。
だから、有名な詩人に対してその出自を取り沙汰するような意地悪な言い方(批判ですらない)は生まれない。英国以外では。
その意地悪さと言えば、『すばらしい詩だけれど、本人(作者)が読んだら(下層階級の)訛りで台無しなんでしょうね(ほほほ、と笑い声が入る感じか?)』というようなものである。

日本だったら、『お国ぶりが出ていて"味があるねぇ"』と成るようなところだ。
演歌とか、そうでしょ?
方言を隠すどころか、どこへ行っても大きな声で喋り捲る(自分の方言こそが共通語と信じて疑わない)関西人なんか、英国人には信じられない存在であろう(笑)
え?信じられないのは英国人だけではない?
そうかなぁ〜。

絵黒人は、話の筋・役回りと、その俳優の話す言葉の"アクセントと話し方"をじっくりと吟味してそこんところでも隠された面白さを味わうと言う。
だから、「マイ・フェア・レディ」とか、ディケンズの「オリヴァー!」や「大いなる遺産」、ほかに「レベッカ」や「ジェイン・エア」「高慢と偏見」(←今年キーラ・ナイトレイ;パイレーツ・オブ・カリビアンのヒロイン:主演で映画化された)「ブリジット・ジョーンズの日記」「メアリー・ポピンズ」、「コレクター」や「時計仕掛けのオレンジ」でさえ、そういうことを考え楽しむ対象になる。

すべては"階級差"による、言葉使いやアクセントから発する ⇒ 登場人物の立場の違い ⇒ そこに隠された内心の苦悶・表面には出てこない思いなど が、分かる。
普通に科白を聞くよりも「彼女は○○だから、▼▼な科白や※※な態度が出てしまうのだ」と理解できてしまうのだそうだ。

そこまで考えて、映画は作られているので、同じ原作でも英国発とアメリカ発ではかなり違う映画になってしまうものらしい。
アメリカに差別意識がないとは言えないが、英国ほどに階級に囚われてない。
逆に、映画やテレビにおいては、各人種(白人・黒人・黄色人など。白人でもヒスパニックとか細かい分類もあるようだし)を均等に配するような配慮が求められている。
だから、著者が存命である場合などは、アメリカ製の映画をさして、「これはもう、私の小説ではない」というまでに憤りを表明する作者もいるようである。

以上のような事情から、この本の題名である「不機嫌な…」が導かれる。
彼女はジュリー・アンドリュースのデビュー作品で、役柄はナニーである。
ナニーというのは、子守女性のことで、アッパーミドル(中の上)階級の家庭に雇われる、ロウアーミドル(中の下)或いはワーキングクラス(下)階級の女性達の就職先である。
子守として、子供たちの躾を任されるから、さぞかしその権威は轟くもの、と思うのは間違いで、あくまでも、自分よりも格上の人間を相手にしていると言う気持ちは離れず、子供たちも彼女をしたいつつも、彼女が自分達よりも格下の階級であることを認識する。
そのへんの不安定さ、そして親しくなっても所詮は階級差があるということや目の前に別離が待っていることなどが、彼女、メアリーポピンズをして不機嫌にさせる原因なのである。
たとえば、屋根の上で唄って踊ってなどという教育上悪いことは絶対しないし、子供相手でも厳格な態度をとる。
対等ではないのだから、彼女が自分を自分たらしめる威厳は、厳格な乳母と言う形でしか表わすことは出来ない。
その態度は最後のそして唯一の彼女の砦でもあるのだろう、と私は思う。
そしてアッパーミドル、その上のアッパークラス(貴族階級)は、子供のころから"階級差"について深い考察が出来る人間に育ってゆく、という按配なのだ。

なんだかねー。
そんなのなくなってもいいだろう、と思うのは、イ黒人だからだろう。
伝統、というには、あまりに…ちょっと、と思うのも、きっと私が異国人だからだ。

そういうところに、その、いかにも英国的な"階級差"が出ているか、それを映像で説明されているのがこの本である。

だからとっても分かり易い。
そして、自分が誤解していたことも分かった。

まずは、「コレクター」という映画。
見たことはないが、家人が見て、ショックを受けてその内容の説明を聞いている映画である。
要は、気に入った女性を攫って来て閉じ込めて死なせてしまうという男の物語である。
それがおたくどころではなく…まるで蝶の収集をするかのようであるのが気持ち悪い。
凝りもせずに、次の女性を狙っているらしい終わり方も…。
で、攫って来ても手も触れようとしない、この男。
彼女が好きで結ばれたいけれど、「階級(クラス)が違うから、いっしょにいようと思えばこうするしかない」などという。
階級差が、この20世紀の時代においても、愛よりも(いや、この場合は合いはないけど)苦しみよりも重い、という感覚、その事実。
それをこの映画はあらわさねばならないのだそうだ。

そうか…キモチワル〜イ、だけではダメだったのだ。
知らなかったよ…。

そして、「タイム・マシン」という映画。
単なる娯楽映画だと思っていたのだが…なにしろ、あの、H・G。ウエルズの原作だし。(偏見?)

とある事情で未来に行き着いた主人公(男性)は、そこで二つの種族に分かれた未来の人間像を見る。
それは間違いなく"階級"によって分かたれた人間の姿である。
…というわけで、娯楽SFだとばかり思っていた物語ですら、この英国の病を大きなテーマとしてしょっているのだ。

そんな風に見ねばならぬのか。
未見の「時計仕掛けの…」はかなり暴力的で眼をそむけるシーンのある映画だそうだが、ここにも言葉使いで"階級差"を(一部の人、英国人でないと分からなくても)強調しているという。
コクニーにかわる、それらしき"言葉"を、著者はわざわざ創り上げたのだから。

面白いのは、子供向け大人気の「ハリー・ポッター」シリーズである。
あの物語では、純潔の魔法使い・マグルと言う人間の血が入った魔法使い(混血と罵られる)の"階級差"がもろに出てくる。
ところが、俳優の話す言葉は、といえば。
純潔である"赤毛の一族"ロン・ウイズリーは、ロウアー・ミドルの言葉で話す。
逆に、"混血"とことあるごとに言われるハーマイオニー・グレンジャーは、美しいアッパークラスの言葉を使う。
その矛盾…も、また面白がるところなのだそうだ。
&階級差を取り入れない映画、にしようとして、逆に悪目立ち(?)しているか。

難しいよ…というか、面倒な。

でもね。
階級(クラス)が上の男が、下の階級から女性を迎えるのは、別に構わない、というのが、英国社会のおおらかさではなく、"救ってやっている"みたいな匂いがプンプンするのがなんだか嫌だなー。

というか。
そういうことをいちいち吟味しながら映画は楽しめない。
面倒くさい。
せいぜい私らが出来るのは(楽しむのは)、下手な関西弁・京都弁をのうのうと使っている俳優を「下手くそ、勉強しなおせ」とやじるか、影でくすくす笑うぐらいだもん。
え?
充分意地が悪いですか?
勿論。
そうでしょうとも!

でも(特に)京都人は、京都人とよそさん、を分けているぐらいで、階級差なんて思ってもいません。
自分が上位だなんて思ってもいません。
ハイ。

ISBN:4582852734 新書 新井 潤美 平凡社 ¥798

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