「柴田哲孝著・下山事件最後の証言」
「諸永裕司著・葬られた夏」
そしてこの「森達也著・下山事件(シモヤマ・ケース)」

この三冊を書いた三者は、いっときともに取材し調査し、協力した人たちである。
しかるに、同じ事件を扱った本を、それぞれが描いた。
勿論、重複は免れない。

ともに手を取り合って困難な調査を行ったとは言え、夫々の主張すべきことも微妙に違っているだろうから、それぞれが違う本を書くこともありえるだろう。
だが。

捏造とか。
盗用とか。
どっちの肩を持つとか(3人いると2対1になるという不滅の法則か?)(笑)

なんだかなー。

下山事件について言えば、当時GHQの統制下にあって共産(組合)勢力が強まっていた国鉄組織に対し、何万人という首切り通告をしなくてはならなかったのが、国鉄の辛い立場であった。
国鉄総裁の下山氏が拉致監禁殺害されたのが、その主犯が共産主義勢力であるとすれば、国民の意識は反共産に流れ、マスコミはそれをあおり、総じて国家すべての民意と言う形で"反響"は出来上がる。
しからば、国鉄職員雄首切り・組合の弱体化も進められるというものだ。

…というのがおおまかな理由で(実はGHQ内部の抗争とか対北朝鮮の活動とか日米安保とか政治的必要性とか、まあいろいろあったのだけど)、この事件はろくろく捜査もしないうちにあっちからこっちから圧力が加わり、証人は姿を消し、言ってもいない証言が新聞に載り、うやむやのうちに決着をつけられている。

こもあとにも、列車が暴走し使者を出した松川事件なども続いて起こり、協賛勢力はあっというまに弱まったと言う。

…で、映像屋である著者がその謎を追いたい!というウイルスに感染してしまったところから話は始まるのだが。

真相を追いかけてゆく著者とその仲間。
事件後数十年を経て、証言はあやふやに、証言者は鬼籍に入って、ことはどんどん難解になってゆく。

"金にならない"取材やテレビの企画は流されかけ、やがて裏切られ、著者は自分が追い求めてきたものが何であったのか、見失いさえするのだった。

下山事件はとうに終結を見た事件であるかのように思える。
ぞして、その後のアメリカとの蜜月時代・朝鮮戦争が日本の好景気を呼び、国民総生産世界一の経済大国に、今の歌かな日本にのし上がるルートを、まさしく線路を敷いたことは確かだ。
だが…。
下山総裁の死が、だから、仕方がなかったなんて、誰がそんなことをいえる?
これは、とても恐ろしいことである。
思考が麻痺している、人間としての感情が凍り付いているとしか思えない。

しかし日本国民が、日本政府が、なんどもなんども同じ過ちを繰り返して、それでも尚、また、同じ過ちに足を踏み入れようとする民族であることは、私たち自身が良く分かっているのだから、今からまた同じ過ちを繰り返さないとはとても言えない。

そう、今から。
私達が生きてゆく未来に向かって、何度でも繰り返し得る事なのだと、著者はそういいたいのだろうか。

なんて恐ろしい。
事件自信の無残さ残酷さもさりながら、それ以上に、人間の欲望の恐ろしさを、どろどろとした深淵の底を見せられたような嫌な気分になった。

下山総裁の誘拐・拷問・殺害に関与した企業など、今でも「あ!」と思う名前が出てくるのがなんともショックだけれど…。
歴史は続いている。
歴史は繋がっている。
まさしくその通り、それを身をもって感じた瞬間である。

「解決」はない。
「自分で考え」なさい。

そういう本は、とってもしんどい。
     
     でも、有難い……

ISBN:4101300712 文庫 森 達也 新潮社 ¥620

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