ヤナギダクニオ、といえば、ついつい別の人物を想像してしまい勝ちだった私(笑)

だから、著者・柳田氏のエッセイを(エッセイに限らず)読むのは初めてのこと。
…で、感想は、といえば。
「もっとはやく出会いたかったー!」
である。

もともとエッセイが好きな私だが、この方の、ゆっくりと育み語る雰囲気が、とっても暖かく感じられる。

「生きる証し」
では、死を前にした方のエピソードが続く。
"いのち"はただひとつ。
忘れがちになることだけど。
ただひとつ。

そして、限りがある。
いつかは死ぬ。
いつかは終わりが来る。

自分も人も。
それを見据えて生きることが出来るだろうか。
いろいろと考える。

「愛のかたち」
自身が障害者であったり、家族が重い病気にかかったり。
自分は、どのように生きるられるだろうか。

或いは。
自分の人生が、艱難深紅の、山あり谷ありの、絶望的な前途に見えた時。
愛はどこへいくのだろうか。

「老いの支え」
人は老いる、勿論。
介護は?
人生の終幕を、どのように引くのか。

「ノンフィクションの愉しみ」
女性の社会進出。
既に世の中は、女性を無視しては進まない、進化しない。
それは、もう、当たり前のことなんだけどね。

「音楽のある風景」
レコードやラジオ(著者の青年時代はテレビではなくラジオがメインだった)
音楽を介しての人とのまじわり。

「愛犬のいた日々」
一番…私が一番喜んで、わくわくして読んだ章である。
柴犬大好きの私に、柴犬攻撃とは…あなどりがたし(笑)
実際に近所の柴犬の散歩に遭遇すると、皆、"ご主人様命!"で飼い主の方ばかり向いて、こっちはちらりとも見てくれないのだが。(前方不注意でモノにぶつかってる柴犬の多いこと!)
犬に支配され、犬をこよなく愛する人たちが、犬を通じて親交を深めた"犬神家の人々"とは、上手い洒落。

「マイ・プライバシー」
人には秘密がある。
話したくないことがある。
周囲の他人一人一人に対して、隔たる"距離"というものが存在する。
それをどこまで語るか。
それも年齢とともに、気持ちの変化があって、そしてゆっくりと溶け出す氷河みたいなものかな?と私は思う。

ざっと目次にそって述べれば以上の如し。
ただ、特に印象に残ったのは、「音楽」のところの、ピアニストの中村紘子氏(うとい私でも知っている、有名人だ)のエピソードである。
演奏中、右手を1オクターブ間違えて弾きだしてしまい、とうとう弾けなくなり、途中でやめて観衆に頭を下げ、やり直しをしたという話。
それに引き続いて著名なピアニストであるルービンシュタインがやはり弾き間違ったという話。
ルービンシュタインは、
左手とぶつかり合ってうまく弾けなくなり、もじゃもじゃとごまかして弾き続けるのを見てしまったのである。
だって。
そして、有名な指揮者・バーンスタイン。
彼はなんと、"跳ぶ"指揮者だったそうだ。
少し前に読んだ漫画「のだめ」をフラッシュバックする、出来事がこのふたつ。
のだめがやっていた。
片平さんが跳んでいた(笑)
…こういうことって、あるんだね、実際に。
漫画の著者は分かっていたのか。
なんだかなー。
真実は小説より…ってこういうことも言うのかな、と思った次第である。

そうそう!
本書で、謎が、というか、誤解がひとつ解けた!
それは「ヤマアラシのジレンマ」である。
命名者は、フロイト。
そう、あの、心理学のフロイトである。
ヤマアラシ・ジレンマという用語の語源は、19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウエルが書いた寓話にあるという。
二匹のヤマアラシが寒さのなかで、身を寄せあって温めあおうとした。ところが、ヤマアラシは背中から尻尾にかけて鋭い長いトゲが生えているので、密着しすぎると、傷つけあってしまう。しかし、痛いからといって離れてしまうと、寒くてこごえてしまう。そこで、くっついたり離れたりしているうちに、あまりひどく傷つけずに、適度に温めあう、ほどよい距離を発見した、というのである。
ドイツのフロイトは、この寓話からヒントを得て、人と人が親密さを維持するための距離のとり方の難しさを表わすキーワードとして、ヤマアラシ・ジレンマという用語をつくったのだという。

そして、このヤマアラズシ・ジレンマが起こり易いのが、夫婦の間なのだそうだ。
私の誤解は、前半部分しか知らなかったこと。
お互いに傷つけあうので、温めあえない、かわいそうな存在…そこまでしか知らなかったことだ。
解決方法も、ちゃんと知らなきゃ中途半端な、恥ずかしい知識だったね。

犬神家の人々…で出てきた柴犬の"ハラス"については、早速本を探し速攻注文した。
古い本のようだけど、あってよかったー。

ショックなのは、北極星が消滅に向かっているということだ。
消滅、といってもブラックホールになるわけではなく、"赤色巨星"というものになるということなのだが。
赤色巨星になるとどうなるのか?といえば、あの美しい煌々たる輝きがなくなり、赤みを帯びた星に変化してしまう。
北極星は、いま老年期に入りつつある星である。太陽のように盛んな水素原子の核融合反応によって輝いている壮年期の星と違って、すでに水素原子をほとんど消費しつくししていて、非情な高温になっている。このため、やがて星全体が膨張して、赤みをおびた老年期のいわゆる"赤色巨星"になる運命にあるのだが、いまはその直前の段階にある。

こういう段階の星は、老化をためらうかのように、少し膨張しては収縮し、また少し膨張するという脈動をしている。地球から観測していると、わずかながら明るくなったり暗くなったりするので、"変光星"とよぶ。
…(中略)…
北極星の脈動つまり変光が急速に弱まっていて、はやければ来年の1992年にはついに永久に止ってしまうかもしれないということがわかったのである。

何千年か何万年か後には、北極星は鈍く赤く光る星になってしまうのか

なってしまうのか。
私も愕然たる思いでこの文章を読んだ。

何千年、何万年も先のことだ。
私には関係ないことだ。
いや、そんなころには、人類だって存続しているのか、非情に怪しい。
だけど、だけど。

北極星は、目印だった。
いつも動かない、どしんと、そして煌々と光をともす指標であった。
その歴史は、人類よりもずーっと長いのだ。
人類の歴史の中で、あの星は、動じない、指標であり、原点であっただろう。
その、永遠のもの、と無意識に思ってきたものが……

そう思えば、諸行無常。
その言葉を知っていても、やはり平静ではいられないのだ。

ISBN:410124913X 文庫 柳田 邦男 新潮社 ?540

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