アルジャーノンに花束を
2006年9月8日 読書
作品自体は随分と古いが、この作品を耳にしたことがない人は少ないはず。
前回(といっても随分昔)、ボースンさまにお借りして読んだのだった。
今回は、この5月に市内の古書市で¥500−で売りに出ているのを見つけて思わず購入したのである。
「アルジャーノンに花束を」
小説の末尾の、この一言が、この300頁超の小説の、すべての集約である。
そしてその言葉を読者が見つけるとき、感動を、激しい感情の漣が立つことなしにはいられない。
私も初読のときは、うるうるしてしまった…。
科学研究の為に繰り返されるモルモット手術。
それはやがて人間を、精神薄弱の人間の脳を使って行われた。
人に笑われることで、友達を得ていたチャーリー。
親に見捨てられ、妹に拒絶された過去を思い出したチャーリー。
急激に発達する脳細胞ー知識ー知能に、感情が激しく揺り動かされるチャーリー。
知能が急激に発達するからといって、感情がそれに伴うとは限らない。
いや、どちらかといえばそれは、逆行する。
混乱と、迷走と。
解説者の言うように、とてもSF小説という括弧では括りきれない、佳作なのだ。
それは数十年経った今でも断言できる。
特に、科学や医学の発展に目がくらんで、人間の本質・幸福というものに真っ向から目を向けることを忘れてしまった現在の人間にとっては。
映画「レナードの朝」でもそうだった。
そこに感じた、人間の英知の限界と言うか、運命のどうしようもなさというか……私はキリスト教徒ではないので、「これもすべて神の愛」とはよう考えられない(納得できない)のだけど、人間の力ではどうにも出来ない"力"は感じるしその存在を否定しない。
それにどこまでも抗おうという気力も、今となってはない。(若さがないせいか?)(笑)
だからこそ、人間の"忘れる"という機能は、本当に、生きてゆく上で大いなる力だと思うのだ。
私の冷たい墓標には、誰が花束を捧げてくれるだろうか。
(…と言う前に、お墓が買えるのか?いっそ散骨…できるのかな?環境汚染とか言われそうだナ…)
ISBN:4152033932 単行本 小尾 芙佐 早川書房 1989/04 ¥1,575
前回(といっても随分昔)、ボースンさまにお借りして読んだのだった。
今回は、この5月に市内の古書市で¥500−で売りに出ているのを見つけて思わず購入したのである。
「アルジャーノンに花束を」
小説の末尾の、この一言が、この300頁超の小説の、すべての集約である。
そしてその言葉を読者が見つけるとき、感動を、激しい感情の漣が立つことなしにはいられない。
私も初読のときは、うるうるしてしまった…。
科学研究の為に繰り返されるモルモット手術。
それはやがて人間を、精神薄弱の人間の脳を使って行われた。
人に笑われることで、友達を得ていたチャーリー。
親に見捨てられ、妹に拒絶された過去を思い出したチャーリー。
急激に発達する脳細胞ー知識ー知能に、感情が激しく揺り動かされるチャーリー。
知能が急激に発達するからといって、感情がそれに伴うとは限らない。
いや、どちらかといえばそれは、逆行する。
混乱と、迷走と。
解説者の言うように、とてもSF小説という括弧では括りきれない、佳作なのだ。
それは数十年経った今でも断言できる。
特に、科学や医学の発展に目がくらんで、人間の本質・幸福というものに真っ向から目を向けることを忘れてしまった現在の人間にとっては。
映画「レナードの朝」でもそうだった。
そこに感じた、人間の英知の限界と言うか、運命のどうしようもなさというか……私はキリスト教徒ではないので、「これもすべて神の愛」とはよう考えられない(納得できない)のだけど、人間の力ではどうにも出来ない"力"は感じるしその存在を否定しない。
それにどこまでも抗おうという気力も、今となってはない。(若さがないせいか?)(笑)
だからこそ、人間の"忘れる"という機能は、本当に、生きてゆく上で大いなる力だと思うのだ。
私の冷たい墓標には、誰が花束を捧げてくれるだろうか。
(…と言う前に、お墓が買えるのか?いっそ散骨…できるのかな?環境汚染とか言われそうだナ…)
ISBN:4152033932 単行本 小尾 芙佐 早川書房 1989/04 ¥1,575
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