流れる星は生きている
2006年5月28日 読書
此処のところ、嵌まりにはまっている藤原正彦氏のご母堂、藤原てい女の手記である。
大正7年生まれの彼女は、気象台職員の夫について満州・新京へと向かった。
昭和18年のことである。
18年という年号が何をするかは日本人ならようく分かっている。
終戦まで2年。
たった2年。
そしてそのときは来た。
ソ連軍が南下してくるとの知らせに、身の回りのものだけをもって逃げねばならなくなったとき、まず、信じられなかった。
昨日までの平和な生活を、二階の窓から見下ろした庭の畑のトマトや、風にそよぐカーテン下に健やかな寝息を立てていた赤ん坊の姿・映像に感じつつ、「生きるためには逃げねばならぬ」現実味のないその現実に目をむけ無理やり脚を動かした。
そこから苦難の旅が始まる。
夫は責任者の役割に固執して、脱出のチャンスを失してしまう。
「自分たちだけのことを考える利己的なことは出来ない」
「他の人たちのことを捨ててはいけない」
そういって、一緒にいちはやく逃げてくれという著者の懇願をはねつける。
そして、終戦。
そして、38度線の封鎖。
彼らは、北朝鮮の地に取り残されてしまった。
働ける男たち。
18歳以上の男たちは皆、北方へつれて行かれた。
シベリアへ。
労働力として。
使い捨ての命として、人間としての尊厳もなにもなく。遺された女と年寄りと子供たちは自分たちだけで生きてゆかねばならない。
弱いものは結束し、日本人会を作り相談していろんな決め事をし相互扶助をしていたようだが、それもまだ余裕のあるうちのようだった。
著者は、6歳(長男)を筆頭に、3歳(次男:正彦氏)と乳飲み子(長女)を抱えての旅。
栄養状態も悪く、自分も含めて酷い下痢に悩まされ、体力を失い、お金もなく、生きるためにさまざまな道を考えなくてはならない。
もっているものを売るのはまず最初に誰もが考えることで、夜明けの市場に落ちているくず野菜を拾いに行く。
安く仕入れた石鹸やタバコを、朝鮮人の家家を回って売りに行く。
決死の思いでソ連軍の基地に不要布を懇願しに行き、人形を手縫いしてそれを街中で売る。
やれることは何でもやる。
腐りかけた野菜を蹴飛ばされ、したたかに膝に当ってそれでもそれを拾い上げて逃げるその背中に、嘲笑が追いかけてくる。
蔑みの目で見られる。
女としてより、人間としての尊厳もなにもなく、それでも子供3人を生かすために、生きて内地に飼えるために、必死に、ただ「生きることだけを目的に」生きる。
職場の仲間で団を結成し、互いに工夫し力を合わせる日本人たち。
だが、生きることすら難しくなってゆく日々。
人間が家族のことだけを、自分の事だけを考えるようになってゆくのも致し方のないことだ。
それを責めることは出来ない。
それを責めつつも、「責めることよりも、なにより生き残ることだ」と思いなおし、時には男言葉を使ってでも、著者は子供たちを叱咤し、自分を叱咤し、チフスや食料や目の前に次々と競うように出現する苦難をなぎ払い乗り越えてゆく。
母だから強いとか。
子供がいるから強いとか。
そういうことではないと思う。
そんな生易しいものではないと思う。
そして、こんな極限状況でも、「他人を助けよう」とする人のあることに、読むたびに、出会うたびに、幾たびも心打たれた。
南へ下る決意。
そのタイミング。
旅費を作るために、最後の手持ちのものをすべて売る。捨てる。
だから、そのタイミングを見誤れば、それは速攻死に繋がる。
貨車で牛馬の糞にまみれ雨に打たれびしょぬれのまま歩いて山をこえ川を渡り、その途中で行き倒れた日本人の死体をいくつも見て、38度線を越えた。
そのままへたり込んで、赤ん坊を背負ったまま道に「死んで」いた著者を助けたのは、アメリカ軍のトラックだった。
避難民のテント(今で言うとキャンプ村)で一時の平安を得、なによりもおなかいっぱいの粥を初めとする食料を口にして、ああよかった、と、読んでいるこちらもほっとした。
今までの食べられない状態からいきなりコーンビーフなど栄養価の高いものを口にして、嘔吐・下痢が続く彼女と子供たち。
飢餓にひたすら耐えてきた消化器官は、栄養価の高いものを消化できないでただただ弱ってゆくだけなのだという医師のことば。
食べたいのに、食べるものはあるのに、食べれば食べるほどに、どんどん弱って死んでゆく。
或いは、飢えているのに食べられない。食べる力すらない。そんな子供がいて、ただただ死んでいく。
なんということだろう…。
山を川を道を裸足で歩き続けた足の裏は切れ、小石が食い込み化膿して、這って歩くしかならない状態になっていた。
その足で、彼女らは歩いてきた。ただ生きるために。
だがそうやって這っていたのは彼女だけではなかった。
多くの避難民がそうしていた。
この中で、生きて日本に帰れるとは思えずに、子供を捨て、或いは中国人・朝鮮人に託した親たちがいた。
それは歴史の事実である。
彼らには、生きて帰れるとは信じられなかったのだ。
それを、誰が、責められるだろうか。
日本の支配を憎み、呼び名としての「日本人」を憎む朝鮮の人々が、「貴方たちは可哀想だ」とこっそりと食料を分けてくれたり、助け起こしてくれたりするかと思えば、同じ引き上げ列車に乗り合わせた"恵まれた日本人"が「汚い」「臭い」「乞食女だ」と嘲笑する。
そして、貧乏人のなけなしのお金すらだまして盗ろうとする。
自分は大金を隠して所持してしながら…。
どんな境遇であっても、人間は自分より下に見る人の存在を必要とするのだろうか?
今の社会でも同じことだ。
自分が少しでもマシだと、自分は勝ち組だと思い込むために、「おまえは負け組だ!」と指を刺し嘲笑する対象を必要とするのだろうか。
そうすれば安心できるのだろうか。
自分が自分の狭い世界でほっとするために、わざわざ「負け組み」なるものを創り上げようと努力するのか。
その人間の、本質。
そこのあるのは、その人自身の本質だ。
生まれとか暮らしとか、国とか、そういうことではなく、その人の本質の伺われるシーンが痛いほどに繰り返され、その中で"ロマンチストなお嬢さん"であった著者は強くなって言った。
気づかないうちに、本を読み進むうちに、最後になって初めて、変った彼女を、その強さを、読み手は感じるだろう。
豪雨の中を闇の中を何かに終われるようにして進み続ける悪夢。
町外れの、土饅頭に子供たちを埋めるという悪夢。
それらに襲われながら、発狂することもなく行き続ける著者。
釜山を出向する引き上げ船に乗り込んだ彼女は、離れてゆく朝鮮を、背後に去ってゆく山川を、決して振り返らなかった。
日本についても、苦難は続く。
上陸を前に、次々と死んでゆく…特に子供たち。
列車は彼女らをふるさとの土地へ運ぶ。
親兄弟の住む地へ。
終戦から1年以上たった今、彼女らは絶望しされていた。
あの満州で、生きて、かえってこられるとは誰も信じていなかった。
しかも、子供たちも3人、一人欠けることもなく。
誰一人として帰ってこなかった家もあっただろう。
それもとてもたくさん。
数え切れないほど。
こんな状態でも、命だけは残った著者一行は、「幸運」といわれるのだろう。
満州開拓団は、夢を抱いて、必死の思いで、新しい町を国と作ろうと努力を続けた人たちだ。
国の、当時の日本政府の政策がどうであれ、彼ら一人一人は必死の思いだった。
彼の地を自分の故郷とする強い気持ちに人もあっただろう。
それが、ただ身ひとつで逃げだすしかなく、多くの死を見、極限状況の人間の根底のものを赤裸々に見せ付けられ、気も狂わんばかりの絶望にさいなめられ、生きてふるさとに帰り、肉親に再会できたものはまだ幸運だというのだろう。
ふるさとの駅に降り立って、肉親のむかえを待つだけになった時、著者は初めて鏡を見た。
自分の姿を見たのだった。
目は血くぼみ、青ざめて、勿論、垢や疲労やぎりぎりの生死の境を歩き続けた者のぎらぎらした攻撃性や、そんなものが創り上げた顔・姿は昔馴染みにすら本人と見分けがつかないほどだった。
著者は、強い。
こんなたった一言で言い表されることではない。
ないけれども…やっぱり強い。
人の運命は、生きるか死ぬかは、その人の芯の強さと、あとは運。
生き残るか、尽きるか、それは何者にも分からない。
だが、人間は最後まであがくように出来ている。
あがくのをやめれば、助かる命も助からない。
藤原ていさんは、本当に強い。
そうして生き抜いた日本人は、皆、強かった。
……あまりに違いすぎる。
今の日本人とは。
引き上げてほっとした著者はそのご数年心臓を悪くして寝込む事になる。
この本は、病床で、「子供たちへの遺言」として綴られたものであるという。
それが家計を一助になれば、ということから日の目を見た。
そして…大評判となった。
同じ思いをしてきた人も大勢いたのだろう。
その人たちは、自分が語れないことどもをこの本のなかに見たのだろう。
自分が言えないことを、この本で伝えられると思ったのかもしれない。
今読んでも、すさまじい。
生きることのすさまじさを、人間の本質を、感じる。
心揺さぶられる一冊であった。
ISBN:4122040639 文庫 藤原 てい 中央公論新社 2002/07 ¥720
大正7年生まれの彼女は、気象台職員の夫について満州・新京へと向かった。
昭和18年のことである。
18年という年号が何をするかは日本人ならようく分かっている。
終戦まで2年。
たった2年。
そしてそのときは来た。
ソ連軍が南下してくるとの知らせに、身の回りのものだけをもって逃げねばならなくなったとき、まず、信じられなかった。
昨日までの平和な生活を、二階の窓から見下ろした庭の畑のトマトや、風にそよぐカーテン下に健やかな寝息を立てていた赤ん坊の姿・映像に感じつつ、「生きるためには逃げねばならぬ」現実味のないその現実に目をむけ無理やり脚を動かした。
そこから苦難の旅が始まる。
夫は責任者の役割に固執して、脱出のチャンスを失してしまう。
「自分たちだけのことを考える利己的なことは出来ない」
「他の人たちのことを捨ててはいけない」
そういって、一緒にいちはやく逃げてくれという著者の懇願をはねつける。
そして、終戦。
そして、38度線の封鎖。
彼らは、北朝鮮の地に取り残されてしまった。
働ける男たち。
18歳以上の男たちは皆、北方へつれて行かれた。
シベリアへ。
労働力として。
使い捨ての命として、人間としての尊厳もなにもなく。遺された女と年寄りと子供たちは自分たちだけで生きてゆかねばならない。
弱いものは結束し、日本人会を作り相談していろんな決め事をし相互扶助をしていたようだが、それもまだ余裕のあるうちのようだった。
著者は、6歳(長男)を筆頭に、3歳(次男:正彦氏)と乳飲み子(長女)を抱えての旅。
栄養状態も悪く、自分も含めて酷い下痢に悩まされ、体力を失い、お金もなく、生きるためにさまざまな道を考えなくてはならない。
もっているものを売るのはまず最初に誰もが考えることで、夜明けの市場に落ちているくず野菜を拾いに行く。
安く仕入れた石鹸やタバコを、朝鮮人の家家を回って売りに行く。
決死の思いでソ連軍の基地に不要布を懇願しに行き、人形を手縫いしてそれを街中で売る。
やれることは何でもやる。
腐りかけた野菜を蹴飛ばされ、したたかに膝に当ってそれでもそれを拾い上げて逃げるその背中に、嘲笑が追いかけてくる。
蔑みの目で見られる。
女としてより、人間としての尊厳もなにもなく、それでも子供3人を生かすために、生きて内地に飼えるために、必死に、ただ「生きることだけを目的に」生きる。
職場の仲間で団を結成し、互いに工夫し力を合わせる日本人たち。
だが、生きることすら難しくなってゆく日々。
人間が家族のことだけを、自分の事だけを考えるようになってゆくのも致し方のないことだ。
それを責めることは出来ない。
それを責めつつも、「責めることよりも、なにより生き残ることだ」と思いなおし、時には男言葉を使ってでも、著者は子供たちを叱咤し、自分を叱咤し、チフスや食料や目の前に次々と競うように出現する苦難をなぎ払い乗り越えてゆく。
母だから強いとか。
子供がいるから強いとか。
そういうことではないと思う。
そんな生易しいものではないと思う。
そして、こんな極限状況でも、「他人を助けよう」とする人のあることに、読むたびに、出会うたびに、幾たびも心打たれた。
南へ下る決意。
そのタイミング。
旅費を作るために、最後の手持ちのものをすべて売る。捨てる。
だから、そのタイミングを見誤れば、それは速攻死に繋がる。
貨車で牛馬の糞にまみれ雨に打たれびしょぬれのまま歩いて山をこえ川を渡り、その途中で行き倒れた日本人の死体をいくつも見て、38度線を越えた。
そのままへたり込んで、赤ん坊を背負ったまま道に「死んで」いた著者を助けたのは、アメリカ軍のトラックだった。
避難民のテント(今で言うとキャンプ村)で一時の平安を得、なによりもおなかいっぱいの粥を初めとする食料を口にして、ああよかった、と、読んでいるこちらもほっとした。
今までの食べられない状態からいきなりコーンビーフなど栄養価の高いものを口にして、嘔吐・下痢が続く彼女と子供たち。
飢餓にひたすら耐えてきた消化器官は、栄養価の高いものを消化できないでただただ弱ってゆくだけなのだという医師のことば。
食べたいのに、食べるものはあるのに、食べれば食べるほどに、どんどん弱って死んでゆく。
或いは、飢えているのに食べられない。食べる力すらない。そんな子供がいて、ただただ死んでいく。
なんということだろう…。
山を川を道を裸足で歩き続けた足の裏は切れ、小石が食い込み化膿して、這って歩くしかならない状態になっていた。
その足で、彼女らは歩いてきた。ただ生きるために。
だがそうやって這っていたのは彼女だけではなかった。
多くの避難民がそうしていた。
この中で、生きて日本に帰れるとは思えずに、子供を捨て、或いは中国人・朝鮮人に託した親たちがいた。
それは歴史の事実である。
彼らには、生きて帰れるとは信じられなかったのだ。
それを、誰が、責められるだろうか。
日本の支配を憎み、呼び名としての「日本人」を憎む朝鮮の人々が、「貴方たちは可哀想だ」とこっそりと食料を分けてくれたり、助け起こしてくれたりするかと思えば、同じ引き上げ列車に乗り合わせた"恵まれた日本人"が「汚い」「臭い」「乞食女だ」と嘲笑する。
そして、貧乏人のなけなしのお金すらだまして盗ろうとする。
自分は大金を隠して所持してしながら…。
どんな境遇であっても、人間は自分より下に見る人の存在を必要とするのだろうか?
今の社会でも同じことだ。
自分が少しでもマシだと、自分は勝ち組だと思い込むために、「おまえは負け組だ!」と指を刺し嘲笑する対象を必要とするのだろうか。
そうすれば安心できるのだろうか。
自分が自分の狭い世界でほっとするために、わざわざ「負け組み」なるものを創り上げようと努力するのか。
その人間の、本質。
そこのあるのは、その人自身の本質だ。
生まれとか暮らしとか、国とか、そういうことではなく、その人の本質の伺われるシーンが痛いほどに繰り返され、その中で"ロマンチストなお嬢さん"であった著者は強くなって言った。
気づかないうちに、本を読み進むうちに、最後になって初めて、変った彼女を、その強さを、読み手は感じるだろう。
豪雨の中を闇の中を何かに終われるようにして進み続ける悪夢。
町外れの、土饅頭に子供たちを埋めるという悪夢。
それらに襲われながら、発狂することもなく行き続ける著者。
釜山を出向する引き上げ船に乗り込んだ彼女は、離れてゆく朝鮮を、背後に去ってゆく山川を、決して振り返らなかった。
日本についても、苦難は続く。
上陸を前に、次々と死んでゆく…特に子供たち。
列車は彼女らをふるさとの土地へ運ぶ。
親兄弟の住む地へ。
終戦から1年以上たった今、彼女らは絶望しされていた。
あの満州で、生きて、かえってこられるとは誰も信じていなかった。
しかも、子供たちも3人、一人欠けることもなく。
誰一人として帰ってこなかった家もあっただろう。
それもとてもたくさん。
数え切れないほど。
こんな状態でも、命だけは残った著者一行は、「幸運」といわれるのだろう。
満州開拓団は、夢を抱いて、必死の思いで、新しい町を国と作ろうと努力を続けた人たちだ。
国の、当時の日本政府の政策がどうであれ、彼ら一人一人は必死の思いだった。
彼の地を自分の故郷とする強い気持ちに人もあっただろう。
それが、ただ身ひとつで逃げだすしかなく、多くの死を見、極限状況の人間の根底のものを赤裸々に見せ付けられ、気も狂わんばかりの絶望にさいなめられ、生きてふるさとに帰り、肉親に再会できたものはまだ幸運だというのだろう。
ふるさとの駅に降り立って、肉親のむかえを待つだけになった時、著者は初めて鏡を見た。
自分の姿を見たのだった。
目は血くぼみ、青ざめて、勿論、垢や疲労やぎりぎりの生死の境を歩き続けた者のぎらぎらした攻撃性や、そんなものが創り上げた顔・姿は昔馴染みにすら本人と見分けがつかないほどだった。
著者は、強い。
こんなたった一言で言い表されることではない。
ないけれども…やっぱり強い。
人の運命は、生きるか死ぬかは、その人の芯の強さと、あとは運。
生き残るか、尽きるか、それは何者にも分からない。
だが、人間は最後まであがくように出来ている。
あがくのをやめれば、助かる命も助からない。
藤原ていさんは、本当に強い。
そうして生き抜いた日本人は、皆、強かった。
……あまりに違いすぎる。
今の日本人とは。
引き上げてほっとした著者はそのご数年心臓を悪くして寝込む事になる。
この本は、病床で、「子供たちへの遺言」として綴られたものであるという。
それが家計を一助になれば、ということから日の目を見た。
そして…大評判となった。
同じ思いをしてきた人も大勢いたのだろう。
その人たちは、自分が語れないことどもをこの本のなかに見たのだろう。
自分が言えないことを、この本で伝えられると思ったのかもしれない。
今読んでも、すさまじい。
生きることのすさまじさを、人間の本質を、感じる。
心揺さぶられる一冊であった。
ISBN:4122040639 文庫 藤原 てい 中央公論新社 2002/07 ¥720
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