著者、藤原正彦氏が小学校4年生の時、といえば、昭和28年にあたる(らしい)。
その時代、著者がすごした小学校時代の話を短い文章でまとめている。
それが「心に太陽を、唇に歌を」である。
その文章は短いが、含むものはとっても大きい。

戦後がようやく落ち着いたといっても、まだまだ日本国民は貧しく、親もなく、給食費も遠足費も払えず、継ぎのあたった衣服に裸足に靴を引っ掛けているような子供、も少なくなかったようだ。
著者の家も、裕福な方ではなく、父の給料(新田次郎氏はもと気象庁務めの公務員だった)と母の倹約だけでは成り立たず、成績が丙だった母てい女が改めて裁縫学校へ行きなおして、仕立物の内職をすることで成り立っていた…という。

話は変るが、中華人民共和国がこんな成金国家みたいになる前(自国を棚に上げる私)は、道は石ころの転がる土のガタガタ道、屋根にはぺんぺん草、土染みというような茶色っぽい色の染み付いた土壁、くずれ掛けの土塀……などなど、実に郷愁を誘うような風景が目前に広がっていたものだった。

著者の年齢より二回り近くも下回る私がそう感じるほどだ。
昭和40年二入っても、日本はそんなにおしゃれな、というよりも、正直に明確に言えば無機質な、そんな佇まいはどこにもなかった。
…ように記憶し、感じている。
(人間の記録はあやふや。いいことしか覚えないからなー)

だから、まあ、著者の小学校時代の風景も、なんとなく想像できるのだった。
(田舎の学校だったせいか、服の肘とか膝とかに継ぎあては普通にあった。女の子だから、すこしは恥ずかしかっけどね。給食費を払えない子もいたかもしれない。)

凄惨な戦争の終結を迎えて、どんなことがあっても暴力を振るわないと決意する担任教師の姿。
正義の鉄拳(弱いものを助ける、弱者や女は殴らない等々)は暴力ではないと信じる著者と父。(母には"警察と裁判官を一人で兼ねていると批判されるが")
その著者が、やがて担任教師を尊敬し始める。
その心が芽生えたのは何故か。
貧しい時代だからといって、心が貧しかったわけではない。
将来に描く夢の分、子供たちは、大人たちも、豊かな心をもっていたと思う。

「心には太陽を」
そして、
「唇には歌を」

小学校1年生の時、クラスでも鼻つまみ者の男の子がひとりいた。
口だけではなく、手足を出して、クラスメートに乱暴を繰り返した結果、彼は友達と呼べるもののない、一人ぼっちになっていた。(当たり前だが)
担任教師は定年も近い男性だったが、その嫌われ者の男の子に特に目をかけていた(ように当時は思えた。ほら、子供だからね。)
だからクラスからは男の子だけにではなく、教師に対しても文句が出た。(嫉妬である)
休憩時間になると、校庭の角や中庭などを走り回る二人の姿をよく見かけたものである。
最初は逃げまわる男の子を教師が追いかけながら言葉をかける、というものだったのが、やがて並んで走るようになったようであった。
最初は嫉妬していた私たちも、その頃にはそれが普通の光景と化していたから何も言わなくなっていた。
学年の終わる頃、男の子は乱暴をしなくなっていた…ことにすら、私たちはそれがずっとそうであったかのように受け入れていた。

…などという経験を、私も確かにしていた。
もしかしたら、違う形で、同世代の(という但し書きが寂しいけど)誰もが似たような経験をしているのではなかろうか。
と、著者の本を読んで思い出したひとつの記憶である。

年齢は関係ない。
時代も関係ないだろう。
死ぬまで、消滅の一瞬のそのときまで、

「心には太陽を」

「唇には歌を」

そうありたい。

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