【数学者の休憩時間】には、多くのエッセイとともに、なくなった父を偲び、たった2年前に父が訪ね歩いたポルトガルを、日記を記録(宿や食事、立ち寄った場所や合った人などが詳細に記録されている)通りに後を追う、息子である著者(正彦)の姿がある。
…著者にはそのつもりはないのかもしれないが、読み手の心を揺さぶり、どうかすれば、思わず涙させる記述である。
前年に急死した父の死を心の中ではまだ認められない自分、そしてそれ以上に認めていない母を想いながら、旅をする。
あまりに唐突に、そして志半ばで命を終えねばならなかった肉親の心情を、近くにいればいるだけに分かるものとして、その口惜しさを思いを、わがことのように、否、わがこと以上に感じるのは当然のことだと思う。
自分にもその思いがあるからなおさらだった。
そこで、ここで一度その父である人について調べてみようと思った。(手抜きながら)
『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部引用
【父の旅 私の旅】は、父・新田次郎氏の絶筆となった「孤愁ーサウダーデの石」の取材のため、主人公であるモラエスの故郷と彼を生み育てた国・ポルトガルを見ようと新田次郎氏がでかけ、その死後、同じ道を辿った著者・正彦氏のエッセイである。
出会う道・出会う町・出会う人々、そして出会う貧しさ。
欧羅巴と一元的に見てはいけないポルトガルの貧しさがそこにある。
そして日本と、余りにも似ている。
父と子は同じように感じ取るのだった。
ファドー悲しみの歌で知られるポルトガルの人・モラエスは19世紀に日本を訪れ、日本人と結婚し、先立たれた妻の墓を守ったまま日本に骨をうずめた。
望郷も懐かしさも、会いたいが会えない切なさも、すべてサウダーデなのだ。
それは単なる悲哀ではなく、甘美さと表裏一体をなしている。
大学の町・コインブラに詩人テイシェイラのラテン語の詩が石に彫られている。
サウダーデの石ここにあり
麗しき石ここにあり
私の胸に生きている
私の心のコインブラ
孤独にも似た哀しみを
涙の後の安らぎを
ここに歌って青春の
熱き想いを眠らせる
軽くはないエッセイに、私も自分の気持ちを重ねて読んでいた。
言葉には出来ないサウダーデを感じながら。
…著者にはそのつもりはないのかもしれないが、読み手の心を揺さぶり、どうかすれば、思わず涙させる記述である。
前年に急死した父の死を心の中ではまだ認められない自分、そしてそれ以上に認めていない母を想いながら、旅をする。
あまりに唐突に、そして志半ばで命を終えねばならなかった肉親の心情を、近くにいればいるだけに分かるものとして、その口惜しさを思いを、わがことのように、否、わがこと以上に感じるのは当然のことだと思う。
自分にもその思いがあるからなおさらだった。
そこで、ここで一度その父である人について調べてみようと思った。(手抜きながら)
『ウィキペディア(Wikipedia)』より一部引用
新田 次郎(にった じろう、本名藤原 寛人(ふじわら ひろと)、男性、1912年6月6日 - 1980年2月15日 )は、日本の小説家、気象学者。
長野県上諏訪町(現 諏訪市)角間新田(かくましんでん)に彦、りゑの次男として生まれる。彦の兄に気象学者藤原咲平がいる。筆名は、新田の次男坊から。
旧制諏訪中学校(現長野県諏訪清陵高等学校)・無線電信講習所本科(現電気通信大学)卒。妻ていは作家。次男正彦は数学者・エッセイスト。長女の咲子も、家族を書いた小説を発表している。
<略歴>
1932年 中央気象台(現気象庁)に入庁し、富士山観測所に配属される
1939年 兩角(もろすみ)ていと結婚
1940年 中央気象台布佐気象送信所に転勤。長男・藤原正広誕生
1942年 中央気象台母島測候所建設に工事担当官として赴く
1943年 満州国中央気象台に、高層気象課長として転職。次男正彦誕生
1945年 長女咲子誕生。新京にて、ソ連軍に捕虜とされ、中国共産党軍にて一年間抑留生活を送る。
この体験を妻・藤原ていが『流れる星は生きている』としてまとめた。
1946年 帰国。中央気象台に復職する。
1951年 サンデー毎日第41回大衆文芸に『強力伝』を応募現代の部一等に輝き、作家活動をはじめる。丹羽文雄主催の「文学者」の同人になる
1952年 武蔵野市に転居する
1956年 『強力伝』にて、第34回直木賞を受賞
1961年 気象庁測器課の気象測器調査のため、3ヶ月渡欧
1963年-1965年 気象庁観測部補佐官・高層気象観測課長・測器課長として、富士山気象レーダー建設責任者となり、建設を成功させる
1966年 退職
1974年 『武田信玄』などの執筆活動に対し、吉川英治文学賞受賞
1980年2月15日 心筋梗塞のため武蔵野市の自宅にて死去。長野県諏訪市の正願寺に葬られる
初めての小説は、1942年〜1945年の間に書かれたと思われる、藤原廣の筆名の自伝小説『山羊』で原稿用紙7枚。内容は、半生を振り返り抑留生活の辛さと今後作家として活動していきたいと言う決意の表明となっている。
帰国後は、伯父の気象の第一人者咲平が公職追放されるなど気象台自体が組織として混乱しており、気象台はバラック立て隙間風が吹き抜ける状態であり給与も微々たる物で大変な困窮であった。1949年に、ていの書いた『流れる星は生きている』がベストセラーになり映画化もされ、大変に生活が助かったため作家活動を考えるようになる。手始めにアルバイトとして、教科書の気象関係の執筆を引き受けたり、ジュブナイル小説『超成層圏の秘密』『狐火』などを著した。
気象職員として最も知られている仕事に富士山気象レーダー建設がある。これは、1959年の伊勢湾台風による被害の甚大さから、広範囲の雨雲を察知できるレーダー施設の設置が要請され、無線ロボット雨量計で運輸大臣賞を受賞するなど気象測量機の第一人者にして高山気象研究の専門として携わり、完成後その当時世界最高(高度)・世界最大であったため、そのノウハウを国際連合の気象学会での説明するなど明け暮れた。またこの工事に関してはNHKの『プロジェクトX〜挑戦者たち〜』第一回で取り上げられた。
1966年、定年まで文筆一本に絞るため退職を決意したが、果たして作家一本で食べてゆけるか大変懊悩し、定年まで後6年残っていたことであることから定年を待とうとも考えた。退職に際し、気象庁の引止めは大変激しいものであったと言う。
その小説は大変に緻密で、小説構成表(年表のように縦軸と横軸を設定し人物の流れを時系列に当てはめたもの)を先に作成してから執筆に取り掛かった。司馬遼太郎が新聞記者であった頃原稿を依頼しに行ったが、原稿を受けることができない理由として勤務時間・執筆時間・病気になる可能性などをしっかりと並べて断ったと言われる。また山岳小説と呼ばれることを大変嫌い、「平地を書けば平地小説でしょうか」と切り替えしたと伝えられる。
彼の作品は山岳小説をはじめとする「夢と挑戦」をコンセプトにしているが、題材として、歴史上の人物や科学者や技術者、また強い意志で道を切り開いた人物を描いた人物伝・公害やリゾート開発などに伴う問題を取り上げた作品・海外での経験を生かした作品・科学者としての作品など多彩にとった。ビーナスラインに関して『霧の子孫たち』で反対を示したことは、自然保護運動を盛り上げさせる契機となった。
<作品>
蒼氷・強力伝・縦走路・富士に死す・孤高の人・銀嶺の人・槍ヶ岳開山・珊瑚・八甲田山死の彷徨・アラスカ物語・怒る富士・栄光の岩壁・武田信玄・武田勝頼・新田義貞
【父の旅 私の旅】は、父・新田次郎氏の絶筆となった「孤愁ーサウダーデの石」の取材のため、主人公であるモラエスの故郷と彼を生み育てた国・ポルトガルを見ようと新田次郎氏がでかけ、その死後、同じ道を辿った著者・正彦氏のエッセイである。
出会う道・出会う町・出会う人々、そして出会う貧しさ。
欧羅巴と一元的に見てはいけないポルトガルの貧しさがそこにある。
そして日本と、余りにも似ている。
父と子は同じように感じ取るのだった。
ファドー悲しみの歌で知られるポルトガルの人・モラエスは19世紀に日本を訪れ、日本人と結婚し、先立たれた妻の墓を守ったまま日本に骨をうずめた。
「サウダーデとは、愛する人やものの不在により引き起こされる、胸の疼くような、あるいは甘いメランコリックな思い出や懐かしさ」といわれている。
望郷も懐かしさも、会いたいが会えない切なさも、すべてサウダーデなのだ。
それは単なる悲哀ではなく、甘美さと表裏一体をなしている。
大学の町・コインブラに詩人テイシェイラのラテン語の詩が石に彫られている。
サウダーデの石ここにあり
麗しき石ここにあり
私の胸に生きている
私の心のコインブラ
孤独にも似た哀しみを
涙の後の安らぎを
ここに歌って青春の
熱き想いを眠らせる
軽くはないエッセイに、私も自分の気持ちを重ねて読んでいた。
言葉には出来ないサウダーデを感じながら。
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