スタジオジブリのプロデューサー・鈴木氏が語る、ジブリ作品の裏話+α。
鈴木氏自身の映画遍歴を辿ってゆくだけでも楽しかった。
なにより、面白そうな昔の映画を発掘できたのがよい。
中でも、「バリー・リンドン」という映画だ。
なんとなく面白そうで食指を刺激する…。
鈴木氏曰く、へたくそな俳優(ライアン・オニール)を主役に使っているからこそ、面白いのだ!という理屈だそうで。
…よーわからん。
美術監督の取り合いで負けて作品を放り出そうとし、自分が文句をつけた予告編フィルムを自分以外が褒めたといって降板を宣言する…宮さん(宮崎監督のこと)という人は本当に、普通の人じゃないと思わしめる。
そういう、人とは並外れた感性を持つ人だから、あれほどの作品を創造するんだろう。
だからこういう人もいてくれて本当によかったね、と思う。
同時に、そう思いながらも、身近に付き合うのはご遠慮したいと思ってしまった。
そういう監督の傍に鈴木さんたちがいて、頑張ってくれて、私たちに"宮崎アニメ"を見せてくれているのだ。
ありがたや。
これからも頑張ってください。
外国映画と日本映画の決定的な相違点。
全体を作ってから部分を創るのが外国映画。
建物の外観を整えて各部屋を設計するのと同じ。
だから、教会のように左右対称のすっきりと美しい建物も出来る。
上空から見下ろすと、なおはっきりするだろう。
それに対し、日本は部分から創り上げてゆく。
実際、日本の家は部屋から作る。
部屋の連続が家になるから、左右対象なんてありえない。
湯屋ももちろん、ハウルの城がその象徴的なものだ。
おまけに、部分がまずありき、だから、4畳半の部屋で始めた格闘が、まるで大きなりング上で闘っているかのように描かれもする。
空間は必要に応じて、いくらでも拡大・収縮するのが日本流なのだ。
そういえば、昔流行ったアニメーション「聖☆矢」では、リングどころか宇宙空間はてはあの世まで世界を広げていたよな…ああいうことか。
ああいうことをするのは、日本映画(アニメ)だけですってさ。
そんなわけで、映画の創り方にも同じことが言えるのだと。
そういう日本的ものが海外に認められた証が、ジブリの作品が海外で賞に輝いた理由なのである。
ちなみに鈴木氏はプロデューサである。
宮崎監督が描く世界を、具体的にパースをとり地理的位置的感覚をつかむのも大事な仕事なのだそうだ。
…で、あるとき「もののけ姫」でそれをやった。
たたら場からもののけ姫が住む原始の森まで主人公・アシタカが分け入ってゆく、それを時間で距離を測った。
「5分なんですけど…」
と宮崎監督に告げたところ、
「余計なことをして」
と言われてしまったのだそうだ。
監督は確かに日本人らしい感覚で映画を作っている、そういうお話である。
ところで、いまや世界的に流星を極め、「ジャパニメ」(≠アニメ)なる造語まで出来てしまったと言う日本のアニメにも、危機はある。
アニメーターが動画を描くとき、経験していなければかけない。
自分が出来ないことを、絵にして、ましてや動かすことなどできはしないのだ。
正論だ。
今のジブリの若い人たちにも"描けない"者が増えてきているのだと言う。
自分が経験していないから…つまり日本の社会がそれだけ変わってきている証拠でもある。
「千と千尋の…」での冒頭、両親が怪しい世界で怪しい屋台の怪しい食事をがっつくシーン。
若いアニメーターにはかけず、宮崎さんたちが描いたのだと言う。
若い世代は、そういうことをしたことないから。
それが理由。
描けないシーンがどんどん増えてゆくのだろうと鈴木氏は危惧するのだ。
経験していないことを、リアルに描いて、映画を見る人に実感を沸かせるなんてことは…出来ないよね。
ISBN:4835615409 単行本 鈴木 敏夫 ぴあ 2005/04 ¥1,575
鈴木氏自身の映画遍歴を辿ってゆくだけでも楽しかった。
なにより、面白そうな昔の映画を発掘できたのがよい。
中でも、「バリー・リンドン」という映画だ。
なんとなく面白そうで食指を刺激する…。
鈴木氏曰く、へたくそな俳優(ライアン・オニール)を主役に使っているからこそ、面白いのだ!という理屈だそうで。
…よーわからん。
美術監督の取り合いで負けて作品を放り出そうとし、自分が文句をつけた予告編フィルムを自分以外が褒めたといって降板を宣言する…宮さん(宮崎監督のこと)という人は本当に、普通の人じゃないと思わしめる。
そういう、人とは並外れた感性を持つ人だから、あれほどの作品を創造するんだろう。
だからこういう人もいてくれて本当によかったね、と思う。
同時に、そう思いながらも、身近に付き合うのはご遠慮したいと思ってしまった。
そういう監督の傍に鈴木さんたちがいて、頑張ってくれて、私たちに"宮崎アニメ"を見せてくれているのだ。
ありがたや。
これからも頑張ってください。
外国映画と日本映画の決定的な相違点。
全体を作ってから部分を創るのが外国映画。
建物の外観を整えて各部屋を設計するのと同じ。
だから、教会のように左右対称のすっきりと美しい建物も出来る。
上空から見下ろすと、なおはっきりするだろう。
それに対し、日本は部分から創り上げてゆく。
実際、日本の家は部屋から作る。
部屋の連続が家になるから、左右対象なんてありえない。
湯屋ももちろん、ハウルの城がその象徴的なものだ。
おまけに、部分がまずありき、だから、4畳半の部屋で始めた格闘が、まるで大きなりング上で闘っているかのように描かれもする。
空間は必要に応じて、いくらでも拡大・収縮するのが日本流なのだ。
そういえば、昔流行ったアニメーション「聖☆矢」では、リングどころか宇宙空間はてはあの世まで世界を広げていたよな…ああいうことか。
ああいうことをするのは、日本映画(アニメ)だけですってさ。
そんなわけで、映画の創り方にも同じことが言えるのだと。
そういう日本的ものが海外に認められた証が、ジブリの作品が海外で賞に輝いた理由なのである。
ちなみに鈴木氏はプロデューサである。
宮崎監督が描く世界を、具体的にパースをとり地理的位置的感覚をつかむのも大事な仕事なのだそうだ。
…で、あるとき「もののけ姫」でそれをやった。
たたら場からもののけ姫が住む原始の森まで主人公・アシタカが分け入ってゆく、それを時間で距離を測った。
「5分なんですけど…」
と宮崎監督に告げたところ、
「余計なことをして」
と言われてしまったのだそうだ。
監督は確かに日本人らしい感覚で映画を作っている、そういうお話である。
ところで、いまや世界的に流星を極め、「ジャパニメ」(≠アニメ)なる造語まで出来てしまったと言う日本のアニメにも、危機はある。
アニメーターが動画を描くとき、経験していなければかけない。
自分が出来ないことを、絵にして、ましてや動かすことなどできはしないのだ。
正論だ。
今のジブリの若い人たちにも"描けない"者が増えてきているのだと言う。
自分が経験していないから…つまり日本の社会がそれだけ変わってきている証拠でもある。
「千と千尋の…」での冒頭、両親が怪しい世界で怪しい屋台の怪しい食事をがっつくシーン。
若いアニメーターにはかけず、宮崎さんたちが描いたのだと言う。
若い世代は、そういうことをしたことないから。
それが理由。
描けないシーンがどんどん増えてゆくのだろうと鈴木氏は危惧するのだ。
経験していないことを、リアルに描いて、映画を見る人に実感を沸かせるなんてことは…出来ないよね。
ISBN:4835615409 単行本 鈴木 敏夫 ぴあ 2005/04 ¥1,575
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