米原万理氏の「真昼の星空」は、エッセイである。
エッセイだけど、笑うだけではなく、最後に七味のぴりぴりと効いた、"真実"が披露される。

今、日本で、明らかにおかしいと感じている事実、オブラートで包み隠された禁忌に、片足のつま先で触れるような語りが面白い。

「自由と言う名の不自由」では、

自由に書いていいといわれたこのエッセイが、どうにも主題が絞り込めず、イラストレーターにせっつかれた挙句、
「絵を先に描いて。その絵にあわせて原稿書くことにするから。」

その絵からテーマが産まれ、文章が産まれたのだと。

規則や規定や決まりごとに厳しく縛られ枠で囲まれたもののほうが、自己実現が出来る。
自由であればあるほど、"何か"は産まれにくい。すぐに行き詰ってしまう。

同じ様に、思想統制厳しかりし頃のロシア(ソ連邦)今の"自由"の旗の下にあるロシアを引き比べてもいる。
つまり、
お上が何を奇麗事を言おうとも、政府の使い走りであるマスコミが何を煽ろうとも、その裏を見つめる"目"をもっていたそれソ連邦時代。
自由になったがゆえに、マスコミに踊らされ、気がつけばテレビや新聞や雑誌の論評とまったく同じことを、さも自分の意見であるかのように思い、口にすることに何の抵抗も感じない今。
(だから一気にひとつの方向に突っ走る大きな流れが出現する)

さて。
どちらが、本当の"真実を見る目"を、"真実をかぎ分ける嗅覚"をもっていたのだろうか。

なるほど。
仕事で縛られている日常(平日)のほうが、自分の趣味に没頭しようという意気込みが大きい。
週末の休日などは、日ごろの疲れが出て、ごろごろと無為に時間を費やすのみで終わってしまう。
(それこそが休日の意味であり、正しい休日の過ごし方なのだが)

来日したとあるロシア女性が、"日本の男性"について述べたくだりで、電車やバスで席を譲らない(向こうでは常識)ことに憤慨したものの、しばらくの観察の後、仕方がないわね、と言ったのだそうだ。
「日本の男は働きすぎ。クタクタになって通勤する日本の男性に、電車の中で席を譲る余裕はないはね」

日本女性も同じことだ。

現実は、本当にシビアであるけれど。

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