チェルシー(1743)、ボウ(1744-76)、ダービー(1748)、ウースター(1751)、ウエッジウッド(1759)、スポード(1770)⇒コープランド(1833)、ミントン(1793)、ドルトン(1815)、ワイマン(1856)⇒シェリー(1929)、ロウヤルクラウンダービー(1876)

陶磁器だけでずらずらと並ぶこれらの名前は、好事家には大きな意味を持つ。
そし、こういうものを使うことこそが、英国では上流階級の証でもあった。

そのほかにも、

?胡瓜のサンドイッチに異常な執念を燃やす上流階級
 ⇒昼食とディナーの間に食べる軽食には、一番いいと考えられたのが、"胡瓜のサンドイッチ"だった。
だから、友人をお茶に招待しておきながら、それ(胡瓜のサンドイッチ)がない、と言うようなことは、到底許されざる事態であった。

?同様に、ディナーの時間は遅ければ遅いほど階級が上だと思い込んだ当時の英国人
 ⇒ディナーを8時や9時にとり、もっと遅い時間(11時ごろ)にはサパーと呼ばれるぶどう酒や軽食(おかゆなど)を食した。

……どうでもいいけど、こんな食生活で太らなかったのかな?

このように、「食」に関する振る舞いが、上流階級の優越感と自己顕示を満たす道具になっているとよくわかる。
が、同時にまったく逆の方向(合理的・経済的)に流れてゆくのが時と時代の常でもある。

一度に皿をどさっと並べ立てた当時の"コース料理"にかわって、ロシア式の"コース料理"が流行りだすのが19世紀半ばのこと。

つまり、今私たちが眼にし、理解している"コース料理"のことである。
スープに始まりサラダ、魚、肉……最後にデザートと、一品づつ供される食事のことだが、なんでこれが「合理的かつ経済的」かといえば、

?お代わりを許さない(笑)……う〜ん、とっても経済的ですね!
というか、お代わりしてたのか、やはり。
(気持ちはわかるが)

?一度に全部の皿が並ぶと、客はゆっくり時間を掛けてあっちの皿、こっちの皿、と味って食べる。
時には2〜3時間も掛けて。
一品づつ出てくるので、これが出来なくなった。……確かに、合理的だし、経済的でもある。

                       以上!

こういうことを踏まえることが出来れば、英国小説を読むのは、確かに数倍楽しくなるだろう。
たとえ"そのとき"には、ほとんど頭からすっとんでいたとしてもだ。(朦朧と覚えていればそれだけでも善し)

でも、日本人でよかったな、としみじみ思ってしまう逸話が多すぎるのも真実なのであった。

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