思いもよらず…

2004年5月20日 読書
癒されてしまった。
不覚にも目頭が熱くなっちゃったりして…(年かな?)

「生活大国イギリスの知られざる習慣」
と言う本のことである。

単なるエッセイだと思ったんだけどね。最初は。
副題に「大人のためのスピリチュアルライフ」。
それがミソでした。

自然と同化し、自然の息遣いを感じてともに生きる。
これって日本人の専売特許みたいに言ってきたけれど、それが恥ずかしくなるぐらい、英国人(の多く)は自然とともに生きている。

サンタクロースを信じる心。
それは"自分に素敵な贈り物をくれるおじさん"を信じるのではなく、サンタを信じる、と言うその心の、目には見えない、手にはつかめない何か大きなものを信じるということ。
人間存在の、命の、口で語るのではなく心で識る何かを持つ、ということ。

砂糖をどんどん小さく砕いてゆく。
目に見えないほどに。
顕微鏡でようやくそれと分かるほどに。
最初の砂糖の粒を1とすれば。
何もない状態は0である。
そして…何もなくなった(と見える)それを、指につけて舌に味わえば、確実に、
甘いということが分かる
1と0の隙間につまっているきわめて小さな数のほうがはるかに重い

決して0ではない。
目にも見えない。
見えないことが0なのではない。
微小なそのミクロの世界は、宇宙につながっているのだ。

黒でもなく、白でもない考えを取り入れる中から生まれる社会の奥行きの深さ。それは歴史、自然、宗教、文化、そして幽霊や妖精の存在までも否定せず、見えないもの、形の無いもの、わからないものと共存していく行き方から生まれていた。現代社会は自然からビジネスまであらゆるものに法則を見つけ、コントロールしようとしてきた。そして最後に残されたのは、人の持つ動機や意欲や可能性までもコントロールする世界だった。そこには必ず強い志を説くリーダーが現われ、人々はその発想に耳を傾け、人間の心の扱い方を覚えようとする。


人は強いものに凭れることで安心感を得ようとする。
自分の二本の足で一人で立つことよりも、どちらかに集まって、偏って、体を持たせかけて風雨を凌ぐほうを選んでしまう。
自然界において、素手では尤も弱い動物が、何も無くては直ちに死んでしまうであろう最弱の動物が人間であるからにはそれも本能であるのかもしれない。

ある牧師は、人類が20世紀に神を捨て、自然を踏みつけにし、自分たちこそがこの世の中で尤も偉いのだと思い込んだ、そこに大きな落とし穴があったのだと言った。
「人類は神ですら余計なものと捨て、あたかもその呪縛から開放されたように、せいせいした思いになったんだ。神を捨て、神から開放された人類は、自由を得た。けれども悲しいかな、人間の考える自由は一面だけの自由だった。その自由と言うのは『する自由』だけで、『しない自由』に気づかなかった。戦争する自由はあったが、戦争をしない自由は考えなかった。利益を上げる自由はあったが、利益を上げないでいる自由はなかった」
その結果、日本でも人間性を奪われ、自分たちのつくったものに追われ、疲れ果て、なんのために人間をやっているのかと深い懐疑の底に落ち込む人々が増えた。


人間は考える葦なのである。
否、葦でありつづけたい。

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