美しい軍隊?

2004年5月16日 読書
納得できない。みすぼらしいものが強いという事実が、わからない。それらが戦場での実力を有しているということが、ムラード・ベイには理解不可能な神秘として残る。

なぜだ?善いものと悪いものはそれぞれ美と、醜によって表されるはずではないのか?これが世界の心理ではなかったのか?


だからナチス・ドイツは軍服を飾った。
第一印象を極力好ましいものに、"美"に近づけることで、行動の残虐さを、覆い隠そうとする。
……とも言われている。
(そうなると、旧日本軍は失格か…)

確かに。
軍隊は、軍装は煌びやかで美しい方向に向かってきた、ように思える。
特に最初の世界大戦までは。
毒ガスが使われねばあの醜怪な防毒マスクの生まれることはなかったのだから。

機能よりも見た目。
そこにははるかな昔、"第一印象で敵を圧倒する"ことが目的にあったためかと思われる。
西洋の帆船がフィギュアヘッド(舳先の飾り:神話の神々や人物、妖精、実存する生き物など色々なものが選ばれる)を飾るように。
台湾の漁船が、高く反りあがった舳先の両側に"大きな目"を描いて海の悪霊と対峙するように。(ごく近年までの風習である。今もあるかも。)
それらは自分に非友好的である(あろうと予想される)者に対しての、対抗策であった。

それは、相手を圧倒すること。
それに尽きる。

騎手たちは金銀宝石をちりばめた武具に身をつつみ、旗指物も背後にひるがえる。その優美な戦さ装束、その時代錯誤の槍や三日月刀、棍棒にライフル。鎖帷子の上衣がギラリと陽光を反射する。軍旗は色とりどりにゆれている。これもまた蜃気楼ではないかとドセー師団のだれもが一瞬間、わが視覚を疑った。


美しき軍隊。
自身も騎馬も飾り立てて、敵の真正面に姿を現す。
無謀で考えなしだけれど、見た目にはさぞかし幻か嘘のような印象だったろう。

対峙したときに敵を圧倒するには、押し出しのよさ、力強さが求められる。
ならば美しさ=力強さなのか。
女性においては、最近では男性においてすら《美しさ=力》であることは明々白々ではあるが。

民族博物館等にいけば、当時の装飾品やらもこの目にすることが出来るが、衣装はつけてこそ装飾品は飾り付けてこそのもの。

「アラビアのロレンス」が結婚衣裳である純白のアラビア服を身に着けて戦場を行きかったように、人は人がその命を賭ける瞬間だからこそ、美しいものを支持し讃えるものなのだろうか。
力づけられるものなのだろうか。
いつのまにか、本来の戦いの意味から離れたところにそんなものを求めてしまっている。

逆に言えば、"それを着てみたい"と思うだけで、そのものがもつ重く、残酷な歴史と意味を無視してしまっている。
その無視できる状況こそが「平和で結構」といえる矛盾を生んでいるのかもしれない。

あるいは、
"そんなものを見てみたい"
と思う。
そんな気持ちは私にだってある。

ただし"見る"だけ。
使わなくともぜんぜん宜しい。

美しい八百騎の衝撃をー砲撃の射程内におさめた。

マムルークの騎兵隊の襲来を、著者はこう表している。

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