「うちの殿様はなにをした?」
であるが。
もう少しで読了。
この本を手に取ったのは、自分の感情抜きで、事実の羅列として幕末の裏の裏を覗いてみようと思ったからである。
確かに、ただ連綿と綴られる事実があった。
それはよい。
だけど、所詮は人間。
ど〜しても好き嫌いが出るのだね。
ちらほらと、ときにはあからさまに自分の感情で「あほ」扱い、或いは「精神構造が理解できない」と突き放している記述が非常に気になる。
会津を初めとする東北地方の佐幕派に至っては、考えの足りない、時代を読めない、国際感覚のない、とくそみそである。
ああいや。そんな汚い言葉は使っていないが、冷静に事実を述べているだけだよ、と言わんばかりの文章にそういう感情が見えてしまうのだ。
反対に、西南諸藩。
御三家でも早々に朝廷側に走った(というより光圀以来の勤王派だった)理屈屋の水戸藩とか、加賀だとか、変わり身の早い雄藩は、時代を見るに聡い、自分と藩と領民との"保全のため"に東奔西走苦労した、と、一見けなしているように見せながらその実かなり潜在意識は好意的である。
現在の日本政府は、この明治維新で成り立った明治政府からのつながりである。
間に大きな戦争があったが、それでもまったく政体が瓦解したわけではない。
政友会は自民党に、天皇制も潰れることなく引き継がれている。
こういう行間の思いを受け取ってしまうと、ああ、この人は官僚出身だしな…などと、余計な憶測をしてしまう。
勝てば官軍か、と。
憶測をしてしまう自分は、素直に、ストレートに本を読めなくなってしまうので、それがまた腹立たしい。
例を挙げよう。
たとえば、会津や新撰組なんてくそみそだ。
時勢の見えない愚か者。
それは分かっている。決壊したダムに、手作業で土嚢を放り込むような真似をしていた人たち。
いずれ自分の命も怒涛の中に飲まれてしまうことは目に見えている。
確かにそうかもしれない。
でもだから?だから完全否定する?
彼らは愚かだった。
若い世代のアンケートだってちゃんとそう言い切っている。
理性ではちゃんと分かっている。
でも、心で思うものは微妙に違う。
でなければ、これほど支持を受けるか?もてはやされるか?
それとももてはやしている連中は、矢張り愚か者だとでも?
人間の心とは複雑で、損か得かだけでしっかりと選択が決まると言うものではない。
損と分かっていても、そちらを選ぶこともある。
特に小説の題材になるのは、損と分かっていながらそれを選んだ人たちのほうだろう。
歴史と言う浪に飲み込まれてしまった人たちのほう。
はい。とんとん拍子に旨くいって、いまや押しも押されぬ御大臣です〜、なんて人の伝奇ものは、学校の課題図書で十分だ。
歴史の陰に隠れてしまった人にスポットを当てて、人の生き方にはこういうものもあるのだと言うことを知るほうが、小説として面白かろう。
だから「小説」なんである。
天下国家を論じるのでは、決して、ない。
そこまでもない他愛ない話、それが小説なのだ。
その小説が正しい歴史認識を歪めている、というのは、いかにも小説の読者を馬鹿にした発言であるように思える。
NHKの大河ドラマを鵜呑みにするから困る…って、何が困る?
所詮は歴史、過去のこと。間違った認識など、今更神経質に云々することでもない。
(実際、新しいなにかが出るたびに、新しい説が出るたびに歴史は大きく方向転換してきたではないか。歴史認識なんてものは流動的なものなのだから)
小説と歴史認識は別、と言う人は存外に多くいるものなのだよ。
そう馬鹿にするもんじゃない。
それに、所詮「おらが村の英雄」については、いいとこ取りに決まっているじゃないか。
今もそうだ。
例外を除けば、それに何の実害があるのか?
その人が、人になにかを教える立場であるなら兎も角、学者でもなく、教師でもないなら、一人一人の心の中の「私の英雄」にまで、「それは間違った認識だ」と、ケチをつけることはなかろうと…思うのだが。
叉、思う相手が国民生活を左右する権力者(政治家)でもないならば、「私はあの人が好き」で何が悪いのか。
「小説家が会津を美化したりするから…」
などと、故司馬遼太郎があたかもいらん仕事をしたかのような口ぶりが非常に気になった私である。(だって私、ファンだもんな)
そこまで言うなら、「理解できない」「分からない」ではなく、面と向かって(司馬氏はなくなったから無理でも)堂々と論破してゆけばいいのに。
読み手が「成る程」と思えるように手ほどきしてくれればいいのに。
…と、思う次第である。
現代日本の礎だから、すべて正解、などという単純な考え方のほうが、私には理解できない。
もっとも、著者はこういうことをストレートに書いているわけではないので、私の"うがちすぎ"だと言われればそれまでである。
うがちすぎ、であるほうが私にとってもずっと幸せなことである。
さて。
この本も悪い事ばかりではない。
教えられることも多かった。(いや、皮肉ではなく、本当に)
まず、江戸時代の殿様は、ほとんど世襲だと思っていたが、おおきに間違いであることが判明。
だって時代劇とか、世子がいなくなったら即「断絶!」とか言ってるし…。
実は違うらしくって、あっちから、こっちから、養子をもらっているのだ。
だから、親(一代目)・子(二代目)・孫(三代目)と言っても、必ずしも血がつながっていなかったりするのだ。
ある程度は何処の家からもらう、と言うのは決まっていたらしいけどね。
だから意外にも、薩摩は徳川氏と血縁が深かったりとかするらしい。
これは面白い発見だった。
…で、これで思い当たることがあった。
なるほどね。
だから、喧嘩は当然で、冷酷に、あっさりと、切腹させたり蟄居させたり隠居させたり見捨てたり…やってたわけだよ、大名は。
幕末なんか、その時代に藩主だった人は災難で、江戸にいて戊辰戦争なんか始まった日には、江戸にいる⇒幕府寄り⇒朝敵⇒討伐対象、となり、必死で国許や京都へ向かったそうな。
で、お金と兵隊をさし出して、ようやく認めてもらう。
イヤダ、幕府につくんだ、恩義があるんだ、不義理は出来ない、なんて言ってた殿様は、説得されるならいいほうで、さっさと見捨てられたりしている。(変わりの藩主を立ててしまう)
そうか…養子だから、さっさと切られちゃうんだ…可愛そうに…。
会津も養子だったのだけど、切るという非情なことを藩士側がしなかったため、あのような悲惨な結末を迎えたのだ…と本はのたまう。
どのみち、維新時に藩主だった人は、多くが第一線を退いたようである。
隠居をしたわけだ。
そのほうが穏便である。いかにも日本的である。
藩が勤王に決めたのに、殿様だけが佐幕で、とうとうそのトノサマが(!)脱藩して暴れまわった藩主もいるようだ。
それも凄い…。
どちらにしろ、人生の価値は、その人生を生きた本人が決めることなんだし。
他人がとやかく言うことではない、とそれもまた昔から言い古された真実であろう。
であるが。
もう少しで読了。
この本を手に取ったのは、自分の感情抜きで、事実の羅列として幕末の裏の裏を覗いてみようと思ったからである。
確かに、ただ連綿と綴られる事実があった。
それはよい。
だけど、所詮は人間。
ど〜しても好き嫌いが出るのだね。
ちらほらと、ときにはあからさまに自分の感情で「あほ」扱い、或いは「精神構造が理解できない」と突き放している記述が非常に気になる。
会津を初めとする東北地方の佐幕派に至っては、考えの足りない、時代を読めない、国際感覚のない、とくそみそである。
ああいや。そんな汚い言葉は使っていないが、冷静に事実を述べているだけだよ、と言わんばかりの文章にそういう感情が見えてしまうのだ。
反対に、西南諸藩。
御三家でも早々に朝廷側に走った(というより光圀以来の勤王派だった)理屈屋の水戸藩とか、加賀だとか、変わり身の早い雄藩は、時代を見るに聡い、自分と藩と領民との"保全のため"に東奔西走苦労した、と、一見けなしているように見せながらその実かなり潜在意識は好意的である。
現在の日本政府は、この明治維新で成り立った明治政府からのつながりである。
間に大きな戦争があったが、それでもまったく政体が瓦解したわけではない。
政友会は自民党に、天皇制も潰れることなく引き継がれている。
こういう行間の思いを受け取ってしまうと、ああ、この人は官僚出身だしな…などと、余計な憶測をしてしまう。
勝てば官軍か、と。
憶測をしてしまう自分は、素直に、ストレートに本を読めなくなってしまうので、それがまた腹立たしい。
例を挙げよう。
たとえば、会津や新撰組なんてくそみそだ。
時勢の見えない愚か者。
それは分かっている。決壊したダムに、手作業で土嚢を放り込むような真似をしていた人たち。
いずれ自分の命も怒涛の中に飲まれてしまうことは目に見えている。
確かにそうかもしれない。
でもだから?だから完全否定する?
彼らは愚かだった。
若い世代のアンケートだってちゃんとそう言い切っている。
理性ではちゃんと分かっている。
でも、心で思うものは微妙に違う。
でなければ、これほど支持を受けるか?もてはやされるか?
それとももてはやしている連中は、矢張り愚か者だとでも?
人間の心とは複雑で、損か得かだけでしっかりと選択が決まると言うものではない。
損と分かっていても、そちらを選ぶこともある。
特に小説の題材になるのは、損と分かっていながらそれを選んだ人たちのほうだろう。
歴史と言う浪に飲み込まれてしまった人たちのほう。
はい。とんとん拍子に旨くいって、いまや押しも押されぬ御大臣です〜、なんて人の伝奇ものは、学校の課題図書で十分だ。
歴史の陰に隠れてしまった人にスポットを当てて、人の生き方にはこういうものもあるのだと言うことを知るほうが、小説として面白かろう。
だから「小説」なんである。
天下国家を論じるのでは、決して、ない。
そこまでもない他愛ない話、それが小説なのだ。
その小説が正しい歴史認識を歪めている、というのは、いかにも小説の読者を馬鹿にした発言であるように思える。
NHKの大河ドラマを鵜呑みにするから困る…って、何が困る?
所詮は歴史、過去のこと。間違った認識など、今更神経質に云々することでもない。
(実際、新しいなにかが出るたびに、新しい説が出るたびに歴史は大きく方向転換してきたではないか。歴史認識なんてものは流動的なものなのだから)
小説と歴史認識は別、と言う人は存外に多くいるものなのだよ。
そう馬鹿にするもんじゃない。
それに、所詮「おらが村の英雄」については、いいとこ取りに決まっているじゃないか。
今もそうだ。
例外を除けば、それに何の実害があるのか?
その人が、人になにかを教える立場であるなら兎も角、学者でもなく、教師でもないなら、一人一人の心の中の「私の英雄」にまで、「それは間違った認識だ」と、ケチをつけることはなかろうと…思うのだが。
叉、思う相手が国民生活を左右する権力者(政治家)でもないならば、「私はあの人が好き」で何が悪いのか。
「小説家が会津を美化したりするから…」
などと、故司馬遼太郎があたかもいらん仕事をしたかのような口ぶりが非常に気になった私である。(だって私、ファンだもんな)
そこまで言うなら、「理解できない」「分からない」ではなく、面と向かって(司馬氏はなくなったから無理でも)堂々と論破してゆけばいいのに。
読み手が「成る程」と思えるように手ほどきしてくれればいいのに。
…と、思う次第である。
現代日本の礎だから、すべて正解、などという単純な考え方のほうが、私には理解できない。
もっとも、著者はこういうことをストレートに書いているわけではないので、私の"うがちすぎ"だと言われればそれまでである。
うがちすぎ、であるほうが私にとってもずっと幸せなことである。
さて。
この本も悪い事ばかりではない。
教えられることも多かった。(いや、皮肉ではなく、本当に)
まず、江戸時代の殿様は、ほとんど世襲だと思っていたが、おおきに間違いであることが判明。
だって時代劇とか、世子がいなくなったら即「断絶!」とか言ってるし…。
実は違うらしくって、あっちから、こっちから、養子をもらっているのだ。
だから、親(一代目)・子(二代目)・孫(三代目)と言っても、必ずしも血がつながっていなかったりするのだ。
ある程度は何処の家からもらう、と言うのは決まっていたらしいけどね。
だから意外にも、薩摩は徳川氏と血縁が深かったりとかするらしい。
これは面白い発見だった。
…で、これで思い当たることがあった。
なるほどね。
だから、喧嘩は当然で、冷酷に、あっさりと、切腹させたり蟄居させたり隠居させたり見捨てたり…やってたわけだよ、大名は。
幕末なんか、その時代に藩主だった人は災難で、江戸にいて戊辰戦争なんか始まった日には、江戸にいる⇒幕府寄り⇒朝敵⇒討伐対象、となり、必死で国許や京都へ向かったそうな。
で、お金と兵隊をさし出して、ようやく認めてもらう。
イヤダ、幕府につくんだ、恩義があるんだ、不義理は出来ない、なんて言ってた殿様は、説得されるならいいほうで、さっさと見捨てられたりしている。(変わりの藩主を立ててしまう)
そうか…養子だから、さっさと切られちゃうんだ…可愛そうに…。
会津も養子だったのだけど、切るという非情なことを藩士側がしなかったため、あのような悲惨な結末を迎えたのだ…と本はのたまう。
どのみち、維新時に藩主だった人は、多くが第一線を退いたようである。
隠居をしたわけだ。
そのほうが穏便である。いかにも日本的である。
藩が勤王に決めたのに、殿様だけが佐幕で、とうとうそのトノサマが(!)脱藩して暴れまわった藩主もいるようだ。
それも凄い…。
どちらにしろ、人生の価値は、その人生を生きた本人が決めることなんだし。
他人がとやかく言うことではない、とそれもまた昔から言い古された真実であろう。
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